先日、年内最後の作家塾の授業が終わりました。
そこで、2023年の作家塾を振り返ってみます。
今年は、コロナが終息した事も関係したのか、年間通して生徒さんの数が多く、20代〜60代と幅広い世代の生徒さんが楽しく切磋琢磨し、活気がある授業が展開できたと思います。
また、受賞こそしなかったものの、「ロマン大賞」や「新人シナリオコンクール」等の小説や脚本のコンペで最終選考まで残り、惜しい所まで進んだ事例が幾つもありました。
そういう意味で、惜しかったけれども、生徒さんの実力は着実に磨かれた年であったと思います。来年に大いに期待出来るとも言えるでしょう。
尚、年明け前半には、作家塾の授業以外に、学IWATAYAなどで作家塾・出張授業も担当させて頂く予定です。
そういった情報も、年始から、順次、ご紹介させて頂きます。
来年も、作家塾の活動にご注目頂けましたら幸いです。
(花野組福岡「作家塾」運営事務局)
映画のファーストカットとラストカットの決め方。
今回は、映画の話をさせて頂きます。
それも、ファーストカットとラストカットに特化した、ややマニアックは話題です。
映画の始まりの一番最初の映像が「ファーストカット」
映画の終わりの一番最後の映像が「ラストカット」
この両者をどんな映像にするのか、実は、かなり難しいです。
ファーストカットは、その映画の世界にお客さんを誘う(いざなう)ものです。
それ故、ファーストカットの画がどうでも良い筈がなく、誠実な映画の作り手なら、どんな画にするべきか、あれこれ検討します。
派手なら良いとか言う単純な問題ではなく、その映画を象徴する物でなければ、お客さんの心に深く届きません。
それは、映画監督の作家性とも関係します。
映画の巨匠たちが作る映画のファーストカットは、作家毎に千差万別で独自性があります。
ベルイマンの「叫びとささやき」、キューブリックの「2001年宇宙の旅」、黒澤明の「影武者」….例を挙げたらキリがありませんが、どれも素晴らしいファーストカットです。
また、逆にラストカットですが、これは、新体操の着地に相当する物で、綺麗な着地が求められます。
映画を観ていただいたお客様に素晴らしい余韻を持って映画館を後にして頂く為にも重要です。
ラストカットは「終わり良ければ全て良し」であると同時に、「終わり駄目なら全てが無駄」に成りかねないのです。
映画の巨匠による映画のラストカットも、千差万別であり、素晴らしい物ばかりです。
ミロス・フォアマンの「アマデウス」、キャロル・リードの「第三の男」、変わり種では、ジョン・カーペンターの「ゼイリブ」のラストカットも皮肉っぽくて良いですね。
映画のファーストカットとラストカットが重要で深刻な物である事を少しでもお分かり頂けたでしょうか。
そして、この映画のファーストカットとラストカットは、大抵の場合、制作工程の、最後の最後に同時に決まります。
映画のファーストカットとラストカットが決まった瞬間は、映画が作り手の手を離れる瞬間でもあります。
その瞬間は、達成感・安心感と共に、長い旅の終わりの寂しさも伴う物です。
これは、映画の作り手のみが味わう感覚と言えるでしょう。
(花野組福岡「作家塾」運営事務局)
AIには「テーマ」が持てない。生きてないから。
最近、小説・脚本界隈でもAIの登場は大きなインパクトがあって、悲喜交々、様々な意見が飛び交っています。
ところが、それら意見の中で、あまり言われていない事として「テーマ」の問題があります。
小説・映画などの物語には、必ず「テーマ」があります。
ここで言う「テーマ」とは「お題」の事で無く、「作家が作品で述べたい事=テーマ」と言う意味です。
その上で、はっきり言える事は、AIには「テーマ」がありません。
何故なら、AIは、生きた存在では無いからです。
「テーマ」は、作家の人生から発生するものです。
その作家が、どの様な生き方をしてきたか?と、言う事が「作家が作品で述べたい事=テーマ」に強い影響を与えます。
作家の人生ごとに、その作家のテーマがあり、それが作家の個性に繋がるのです。
それ故、人生を歩んでいないAIには「テーマ」が無いと断言できます。
また、AIには「作家としての拘り」も無いでしょう。
今後、科学が発達し、鉄腕アトムの様に人間同様に長い時間をかけて育てられて「心」が芽生えたら話が別ですが、現在の人類の科学力では、遠い未来の話になりそうです。
尚、AIの技術を否定するつもりは全く無いです。
いずれ「物語の書く道具としてのAI」の正しい使い道が分かってきて、小説や脚本の世界でも、AIが作家の重要な道具になる日が来るかと思います。
ただ、その道具を巧みに使う為にも、AIに頼らず物語を書き、自分のテーマを理解しておく事が大切では無いでしょうか。
(花野組福岡「作家塾」運営事務局)