映画で考える「主役・準主役・3番手」 ①

良くある刑事ドラマ風ですが、かなり変わった名作。映画のタイトルの意味は「辰年」です。

・映画「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」で考える主役・準主役・3番手の役割

物語の書き方を学ぶ上で、映画を観るのも有効です。

優れた映画ならば、人物の書き分けが明確で、始まりからオチまで丁寧に描かれています。

それに映画は、物語の分量としては小説よりも短いです。
映画の物語のボリュームは、短編小説くらいでしょうか。

また、一本の映画を見終わる時間は、90分〜130分がほとんどです。
そういう点も、物語を学ぶのに映画鑑賞は効率が良いかと思います。

このブログでも、映画を教材に「主役・準主役・3番手」について考えてみます。

さて、本日の教材は、映画「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」です。
1985年のアメリカ映画で、監督はマイケル・チミノ、脚本にオリバー・ストーンが関わっています。

映画「プラトーン」で有名な監督オリバー・ストーンは、脚本家としてキャリアをスタートしていて、分かりやすくて娯楽性がありつつ、独特なテーマを持った脚本を書いてます。

映画「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」でも、登場人物の描き方が丁寧かつユニークです。

では、主人公・準主役・3番手〜について考えていきましょう。

・主人公「スタンリー・ホワイト」(俳優 ミッキー・ローク)

・準主役「ジョーイ・タイ」(俳優 ジョン・ローン)

・3番手「トレイシー・ズー」(俳優 アリアーヌ・コイズミ)

上記が映画「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」における主役・準主役・3番手です。

物語の内容は、刑事スタンリー・ホワイトが執念の捜査で、チャイニーズマフィアの若き首領ジョーイ・タイを少しづつ追い詰めていき、クライマックスで、両者が遂に直接対決するという感じで、それと共に刑事スタンリー・ホワイトとチャイニーズマフィアを取材する記者トレイシー・ズーの恋愛(不倫)の発展も描かれていきます。

物語の展開自体は一見、平凡なのですが、登場人物に独自性があって魅力的です。

主人公の刑事スタンリー・ホワイトは、ベトナム戦争帰りという設定で精神を病んでいるかの様な暴力性を抱えていて、既婚者なのに平然と不倫をするし、感情移入しにくいキャラなのですが、それがマフィアの首領ジョーイ・タイの残忍でありながら高潔さがあるキャラとの対比で両者が際立ち、どちらも悪人なのに魅力的に見えてしまいます。

着目すべきは、映画の冒頭で、主人公と準主役と3番手が出会い、そこから物語がスタートする事です。そして、映画の最後の最後まで、この3人は出てきて、彼らの結末がどうなったのかまでを丁寧に描き切っています。

刑事スタンリー・ホワイトと首領ジョーイ・タイの両者には、それぞれが所属するグループ内で異端者として孤立しているという共通点があり、殺し合いをする相手でありながら、唯一、分かり合える様な関係にまで発展し、彼らの結末には感動すら覚えてしまいます。

また、主人公スタンリー・ホワイトの不倫相手で、この映画での3番手トレイシー・ズーが、どういう役割を果たしているかと言うと、主人公が所属するエリート階級だけど、嘘ぽくって、本当の愛情が無い世界から解放してくれる相手としてトレイシー・ズーが存在してます。

この様に考えると、3番手トレイシー・ズーも、主人公の成長(変化)を描く上で重要キャラと言えるでしょう。

これ以上、あれこれ書くとネタバレになるので止めますが、映画「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」は、とても面白い映画です。ご興味ある方は、ぜひご覧ください。

そして、ご鑑賞後、主人公・準主役・3番手の関係の変化の過程、4番手以降は誰か?、作品のテーマは何か?など、あれこれ考えてみると、物語の良い勉強になるかと思います。

(花野組福岡「作家塾」運営事務局)

物語での”感動”とは主人公が正しい道を歩む瞬間。

感動作とは、心の修行の物語なのです。

良く映画や漫画・小説の宣伝文句で”感動の物語!”という言い方をしますが、
そもそも、物語における「感動」とは何でしょうか?

先に答えを言うと、物語のおける感動とは「主人公が正しい道を歩む瞬間」になります。

感動作と言われる作品を分析すると、概ねクライマックス部分で、主人公が「正しい道」を歩んでいるからです。

例えば、悪人だった主人公が、様々な経験を経て、最終的に正しい生き方を始める……という構成は、感動作に良くあるパターンではないでしょうか。

もしくは、悲しい出来事に直面して主人公が、クライマックスで悲しみを乗り越え、より精神が強い人間に成長すると言うパターンも良くあります。この場合は悲しみを乗り越える時が正しい道を歩む瞬間になります。

また、スポーツ物などで、弱かった主人公が、努力の末に強くなる……この場合は、ただ強くなるだけでなく、精神的にも強くなる事もセットでついてくる事が望まれます。いくら強くなったとしても、精神が未熟なままでは、別の面白みは発生しますが、感動はしにくいでしょう。

色々な感動作パターンがありますが、言い換えると「感動=主人公の心の研鑽」とも言えます。
以下、その例を挙げてみました。

①「改心」最初、悪い心を持っていた主人公が、最後、良い心になる。
②「意識改革」普通の心を持っていて平凡な生き方をしていた主人公が、最後、それまでとは違う、より意識の高い生き方を選択する。
③「聖人化」そもそも良い心を持っている主人公が、最後、伝説級に崇高な精神を獲得する。

大体、①、もしくは②が感動作に多いパターンでは無いでしょうか?また、③も稀にありますが、これを描くとなると作り手にも相応の精神が求められます。

また、あまりに主人公が崇高すぎると、観客や読者がついていけなくなる場合があります。
主人公は、一般人に近い精神レベルの人物が望ましいでしょう。(誰もが持つ悩みがあるとか)

そういう人物の心が磨かれ、意識の高い生き方へと発展する様子に観客や読者は感情移入し、クライマックスで主人公と同じく心が磨かれた様な気分になって感動します。

また、見方を変えると、主人公が最初と最後でポジティブな変化をしているとも言えるでしょう。

皆さんも、「感動作」と言われる作品を分析されてみて下さい。
分析は、様々な気づきを与えてくれます。

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映画のファーストカットとラストカットの決め方。

Cinematographer Arthur Edeson, Humphrey Bogart and Ingrid Bergman, “Casablanca” 1942 Warner

今回は、映画の話をさせて頂きます。

それも、ファーストカットとラストカットに特化した、ややマニアックは話題です。

映画の始まりの一番最初の映像が「ファーストカット」
映画の終わりの一番最後の映像が「ラストカット」

この両者をどんな映像にするのか、実は、かなり難しいです。

ファーストカットは、その映画の世界にお客さんを誘う(いざなう)ものです。
それ故、ファーストカットの画がどうでも良い筈がなく、誠実な映画の作り手なら、どんな画にするべきか、あれこれ検討します。

派手なら良いとか言う単純な問題ではなく、その映画を象徴する物でなければ、お客さんの心に深く届きません。

それは、映画監督の作家性とも関係します。

映画の巨匠たちが作る映画のファーストカットは、作家毎に千差万別で独自性があります。
ベルイマンの「叫びとささやき」、キューブリックの「2001年宇宙の旅」、黒澤明の「影武者」….例を挙げたらキリがありませんが、どれも素晴らしいファーストカットです。

また、逆にラストカットですが、これは、新体操の着地に相当する物で、綺麗な着地が求められます。
映画を観ていただいたお客様に素晴らしい余韻を持って映画館を後にして頂く為にも重要です。
ラストカットは「終わり良ければ全て良し」であると同時に、「終わり駄目なら全てが無駄」に成りかねないのです。

映画の巨匠による映画のラストカットも、千差万別であり、素晴らしい物ばかりです。
ミロス・フォアマンの「アマデウス」、キャロル・リードの「第三の男」、変わり種では、ジョン・カーペンターの「ゼイリブ」のラストカットも皮肉っぽくて良いですね。

映画のファーストカットとラストカットが重要で深刻な物である事を少しでもお分かり頂けたでしょうか。

そして、この映画のファーストカットとラストカットは、大抵の場合、制作工程の、最後の最後に同時に決まります。

映画のファーストカットとラストカットが決まった瞬間は、映画が作り手の手を離れる瞬間でもあります。

その瞬間は、達成感・安心感と共に、長い旅の終わりの寂しさも伴う物です。

これは、映画の作り手のみが味わう感覚と言えるでしょう。

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AIには「テーマ」が持てない。生きてないから。

最近、小説・脚本界隈でもAIの登場は大きなインパクトがあって、悲喜交々、様々な意見が飛び交っています。

ところが、それら意見の中で、あまり言われていない事として「テーマ」の問題があります。

小説・映画などの物語には、必ず「テーマ」があります。

ここで言う「テーマ」とは「お題」の事で無く、「作家が作品で述べたい事=テーマ」と言う意味です。

その上で、はっきり言える事は、AIには「テーマ」がありません。
何故なら、AIは、生きた存在では無いからです。

「テーマ」は、作家の人生から発生するものです。

その作家が、どの様な生き方をしてきたか?と、言う事が「作家が作品で述べたい事=テーマ」に強い影響を与えます。

作家の人生ごとに、その作家のテーマがあり、それが作家の個性に繋がるのです。

それ故、人生を歩んでいないAIには「テーマ」が無いと断言できます。

また、AIには「作家としての拘り」も無いでしょう。

今後、科学が発達し、鉄腕アトムの様に人間同様に長い時間をかけて育てられて「心」が芽生えたら話が別ですが、現在の人類の科学力では、遠い未来の話になりそうです。

尚、AIの技術を否定するつもりは全く無いです。
いずれ「物語の書く道具としてのAI」の正しい使い道が分かってきて、小説や脚本の世界でも、AIが作家の重要な道具になる日が来るかと思います。

ただ、その道具を巧みに使う為にも、AIに頼らず物語を書き、自分のテーマを理解しておく事が大切では無いでしょうか。

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読者・観客を夢中にさせる物語を作るコツ

小説・映画などの物語の始まりからクライマックス、オチまで読者・観客を夢中にさせるにもコツがあります。

<全ての登場人物にオチをつける>

主役、準主役はもちろん、脇役に至るまで、それぞれの登場人物には、その人物の登場シーンから、その人物の物語内におけるオチまで描きましょう。

そうする事で、人物描写のリアリティーが増し、物語としてボリュームが出てきます。
つまり、お客さんが物語を楽しめるポイントが増えるという事です。

その分、やたらと登場人物を出し過ぎると、書くのが大変になるので、物語に出てくる登場人物は、必要最低限にしましょう。

<物語とは、小さな起承転結の連続体であり、物語内には階段がある>

物語内には、細分化された起承転結が存在します。

オープニングの起承転結、物語前半の起承転結、物語中盤の起承転結、物語終盤の起承転結、クライマックスの起承転結、オチの起承転結と……言う感じで、連載の物語が繋がっていく様に、一つの物語は、小さな起承転結の物語の連続体なのです。

この構造は、長編小説や2時間の映画のみならず、短編の物語も、小さな起承転結の連続体で成り立っています。

この小さな起承転結の連続が、読者・観客を夢中にさせます。

ここで、重要なのが、物語中の短い起承転結が一つ完了する度に、主役と準主役の心が、近づいていくと言う点です。

物語とは、主役と準主役の心の距離の変化を楽しむ物です。

小さな起承転結の一つ一つが、主役と準主役の心が近付いていく階段の一段一段と言えます。
(一段上がる度に、心の距離がより近づく)

その階段の最高到達点がクライマックスであり、主役と準主役の心が最も接近する箇所です。

クライマックスに向け、階段を一段づつ上がる様に、小さな起承転結を一つづつ、完成させていきましょう。

以上が、読者・観客を夢中にさせる物語を作るコツでした。

優れたハリウッド映画や、日本の人気漫画などは、上記の技術が存分に活用されています。

とは言え、理論が分かっても、実現するのは難しいです。

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ホラー映画表現のコツ「何かが起こる事を悟らせない」

本日は、ハロウィンという事で、ホラー系の映画表現のコツについて説明します。

ホラー映画の場合、お客さんを怖がらせたり、驚かせたりする事が第一の目的となります。

怖がらせるには、そもそもの設定が重要なのですが、下手なホラー映画に有りがちなのが、「これから怖い事が起こる事を悟らせてしまう」と言うミスです。

例えば、異変を知らせる表現を小出しにするとか、異変を知らせる音楽を早く出しすぎる等です。

お客さんに、これから何か起きるのねと少しでも悟らせてしまうと、どんなに映像表現を工夫しても、殆ど怖くない表現になります。

ビックリ箱と同じく、突然、何かが起きるから怖いし、驚くのです。

ですので、驚かせる映像が出る瞬間のギリギリ寸前まで、お客さんに何かが起きると如何に悟らせないかが勝負の一つになります。

しかし、お客さんもホラー映画をいくつか観る内に、ああ、そろそろ何かが起こるのだろうと鋭く予測するようになります。

そうなると、作り手は更なる工夫が必要になります。

この様にして、ホラー映画は、賢くなっていくお客さんと作り手との終わりなき心理戦の如き、表現の工夫の積み重ねで進化して行きました。

この心理戦に疲れた作り手の中には、お客さんの裏をかくのを諦めて、あえてベタなホラー表現をして、お客さんに分かっているだろうけど「お約束」を楽しんでねてと言うスタンスに立つ者も少なからず居ます。

時代ごとのホラー映画を見比べると、作り手の涙ぐましい努力の歴史を知る事が出来るでしょう。

少々、話が脱線しましたが、ホラーに限らず、通常のドラマの場合でも、「これから何かが起きる事を悟らせない」という事は、お客さんに楽しんで頂く基本的なコツの一つです。

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物語は概ね、主役と準主役・二人の接近を描いている。

物語とは何か?と問われると、概ね「主役と準主役が近づいていく様子を描いたもの」と説明できます。

物語は、主役の視点で動きますが、主役が何を目的に動いているかと言うと、殆どの場合、「準主役」に近づく事を目的としています。

例えば、恋愛ドラマなら、主人公が恋する相手(準主役)と結ばれたくて近づくでしょう。
刑事ドラマなら、主人公が刑事で、犯人(準主役)を逮捕しようと追いかけるでしょう。
スポーツ漫画なら、主人公が強いライバル(準主役)の強さに追いつこうとするでしょう。

と、いう感じで、世の中の様々なドラマが主人公と準主役の接近を描いています。
例外もあるかもしれないので絶対とは言えませんが、多くの場合そうなっています。

特にメジャー作は、その傾向が強いです。
主人公と準主役の接近は、多くの人が理解しやすい題材だからでしょう。

重要なのは、主人公と準主役の接近とは、「心の接近」と言う事です。

心の接近は、緊張感を生みます。
恋愛ドラマに例えるなら、ドキドキする気持ちと言う事です。
(恋愛ドラマが分かりやすい事例なので引用してます)

そして、二人の心の距離が最も近づく瞬間がクライマックスです。
恋愛ドラマに例えるなら、告白する瞬間などでしょうか。

更に、二人の関係の結末(二人の関係の結論)がオチになります。
恋愛ドラマに例えるなら、主人公が準主役と結ばれたり、振られたりという事になります。

以上の事を踏まえると、物語には最低でも、主役と準主役が必要であり、その二人が居ればドラマは成立します。

また、主人公と準主役の関係が、その物語のテーマにも関わってきます。
二人の関係のオチ(結論)が、テーマに繋がるからです。

壮大なSF映画ですが、結局のところ主人公と準主役の接近を描いています。


ちなみに、映画史上、非常にユニークな主人公と準主役の関係を描いた作品として「2001年宇宙の旅」もご紹介しましょう。

「2001年宇宙の旅」は、一見すると、主人公が居るような居ないような、何とも不思議な構成をしています。

コンピューター・ハルが目立っているので、これが主人公みたいにも思えますが、「2001年宇宙の旅」のテーマ「人類の進化」から考えると、主人公が「人類」で、準主役が「宇宙人(究極に進化して神に近い存在)」です。

主人公は人類なので、最初のシーンで猿みたいな原始的な人類が登場し、準主役である宇宙人(モノリス)との出会いから壮大な物語が始まります。

この物語では、主人公「人類」が長い年月をかけて進化し、「宇宙人」に少しづつ近づいていく構成になっています。

ユニークな設定の映画ですが、やはり主人公と準主役の接近を描いているのです。

他にも主人公と準主役の設定がユニークな物語は色々とあるかと思います。

また、面白い物語を作り出すには、主人公と準主役の関係の設定が重要であり、そこに知恵を絞るべきと言えるでしょう。

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主人公が動かなくとも心の動きで物語は描ける <ジョニーは戦場に行った>

物語とは、主人公の心の動きを、物語の始まりから終わりまで描いたもの

物語とは、主人公の心の変化を描いたものです。

物語中で主人公が大きな行動に出たとしても、主人公の心に何の変化もなければ、ドラマチックではなく、逆に主人公が全く動かずとも、その心が大きく動くならば、ドラマチックになり得ます。

その一例として(かなり特殊な事例なのですが)、映画「ジョニーは戦場に行った」と言う作品があります。

この映画は、設定が衝撃的で、何しろ主人公である兵士ジョニーは、戦場で目も口も鼻も顎も失い、意識はあるものの、身動き一つ、言葉も発せられない状態の悲惨な青年なのです。

そんな状態で何年も病院に横たわり続け、周りから意識のない植物状態と思われています。
主人公は、行動できないので、映画の中では、主人公の思いを中心に描かれる事になります。これこそ、物語とは主人公の心の動きであると言うことを示す一例ではないでしょうか。

ちなみに、映画「ジョニーは戦場に行った」は、伝説的な不屈の脚本家ダルトン・トランボが自身の小説「ジョニーは銃を取った」を、自ら脚本にし、監督までして完成させた反戦映画です。

今の時代にこそ、一見の価値がある作品かと思います。

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書いてて途中で飽きてしまう方に。

物語を書くにも、何でも書けるわけで無い。

小説や脚本を、いざ書き始めたものの、途中で書けなくなったり、書いてて飽きてしまうと言う方が居られます。

これは、選択した素材(ネタ)に原因があります。

素材の選択は簡単な様で、この段階で上手く行かない人も割と居ます。

これは、自分が書きたいモノと、自分が書けるモノ(書くべき事)とのズレなのです。

言い換えれば自分が憧れている作品と、自分が書ける作品とは違うと言う事です。

理想は、その人にとって、切実な思いが書ける素材を選択する事です。
要するに、作者がノって書ける素材・題材です。

例えば、その作家にとって、家族が切実な事であれば、家族モノが書きやすいネタになると言えます。

では、どうすれば適切な素材が選べるのでしょうか?

素材選びで難航している方には、プロット段階で、様々な素材を試す事をおすすめします。

プロットなら短いので、試行錯誤をするのにも効率的です。

そうして、これは何としてでも、最後まで書き切りたい!と思える素材を書ければ、その作品は、半分、完成した様なものです。

素材の選択は、作品を書き始める重要な第一歩です。

正しい素材の選択をしてこそ、作品は完成します。

(花野組福岡「作家塾」運営事務局)

登場人物に順位をつける

最近の作家塾での授業内容を一部、ご紹介します。

<登場人物に順位をつける>
作中の登場人物を、重要度順で順位づけをしてみましょう。

主人公は、1番、準主役が2番、その次に重要な人物が3番、その次の重要人物が4番、と言った感じで、順位をつけます。

この順位付けは、主人公から見た場合の重要度順と言う事です。

そうすると、誰が準主役なのか、3番手なのか、と言う事が的確に分かる様になります。

準主役を書くのは、案外、難しくて、主人公が居て、それ以外はドングリの背比べの脇役達と言った様相になっている作品がプロですらあります。

しかし、準主役の存在が物語の盛り上がりに深く関係してきます。

準主役は、主人公の心を大きく揺さぶる存在で、物語全般に登場し、クライマックスにも絡んできます。

作品を書いている皆様も、一度、自作の登場人物の順位づけをされては如何でしょうか?

(花野組福岡「作家塾」運営事務局)